学位論文の最終判定があり,無事,博士論文が通りましたので,博士号が正式に取得できることになりました。記念に,書いておこうと思います。
審査会,終わったんじゃないの?
博士論文発表会の後に,審査会がありました。その時に審査は通っています。
今回は,可否投票という正式な判定です。詳しくは,以下の記事を参照ください。
博士号は学位規則に基づき,様々な手続きを必要としています。
これまでの6年間の評価
僕自身は,特段自分が優秀だとは思っていません。統計学や英語といった,学者として必要な知識を十分に持っているわけではないし,博士後期課程に入学する以前に大事にしてきたわけでもありません。英語力については高校の時が最もよかったのではないかと思います。研究計画にしても,よくここまで十分ではない状況の中で,博士号取得にまでこぎつけることができたな・・・と自分でも思います。自分が盲目的だった中で学位取得までこぎつけたのは,先生の導きがあったからです。自分の努力という要素もあると思いますが,それだけではありません。副査の先生にも丁寧にご指導いただきました。そういう要素がかなりあったように思います。
自分としては,反省点が多々あります。在学初期に努力が不十分だったこと。それが6年もかかってしまった原因のようなところがあったこと。英語の勉強も不十分だったこと。すべてが遅い気がしています。
しかし,研究能力を身に着けるという意味では,博士論文研究を通して,重要なポイントをひとつひとつ押さえることができたかなと思っています。そういう意味では,進学した目的を果たすことができたし,それに伴って学位を取得することができることはうれしく思います。
加えて,社会人学生を貫くこと,即ち小学校の教員と博士後期課程の学生を兼ねるという信念を貫いたことについては,自分のこの6年間の生活を振り返れば,本当によくやってきたなと思います。全国を探せば小学校の教員が博士号を取った前例は存在するようですが,ほとんど例のない話だと思います。
たとえ学位を取得しても,有限の時間を活用することは変わらない
発表会が終わってからこの4週間,久々にまとまった時間をとることができたので,考えを整理する考える機会になりました。そこで,時間の有限性に気が付きました。
社会人学生でなくなるので,時間ができるような錯覚を起こしていました。理想的には,英語,統計学,調査手法の勉強といろいろ同時にしたいところです。しかし,現実に収入を得ながらそれだけの量の勉強をこなし,なおかつ今まで犠牲にしてきた私生活も大切にして,研究もするなどという理想的なことは不可能です。時間には限りがあります。だからこそ,優先順位をつけて,少しずつやる必要があります。
今日、ふと考えたんですが、博士論文が終わっても時間は有限であることに変わりはない。つけたい知識はたくさんあるし私生活も大切にしたい。でも全てをやることは不可能であることに変わりはない。有限の時間の中で何に時間を費やすかという、この頃感じていた自分の課題そのものに変化はない。
— イモリン (@imorinyamorin) 2020年8月27日
現状の勤務を続ける以上、研究は難しいということです。これを例えば週4の仕事にするなどしても、多少使える時間が増えるだけで、大した変化はないのかもしれません。
— イモリン (@imorinyamorin) 2020年8月27日
限られた時間をどう使うか、ということそのものは変化ありません。
そしてそれは自分の職業生活にも言うことができます。研究がしたい以上,これからは研究をしていける環境を選んでいきたいと思っています。具体的には,英語文献を読みたいので英語の優先順位は高いですが,それ以外については研究をする過程で身に着けていきたいです。
自分のことを控えず,アピールする
今までは立場上のこともあり,自分のことをアピールしたり述べたりすることに対しては相当控えてきました。しかし,自分の存在や価値を示していかないことには,自分の行動や活動,そして信念が表になることはありません。これからはしっかり自分の活動や思いなどをアピールしていきたいと思っています。