野良イモリ博士のblog

社会人学生野良イモリが大学のことや考えていることを発信します。

間違いなく節目に来ている

 博士論文発表会の日から3週間が経過しました。状況が落ち着いてきたので,いろいろと考えられるようになりました。これは,今まで余裕がなかったということでしょうね。博士課程というものの存在がどれほど大きい存在だったのかというのがよくわかります。

 

私生活を崩して生まれた社会人学生という立場

 社会人学生として過ごした期間,たくさんのものが犠牲になってきたと思っています。私生活を楽しむという状況ではなかったし,恋愛なんかもしていない。私生活という一面を見ると,荒んだ6年間だったと思います。それがようやく外れて,気が付けば僕も34です。入学した時点では28でした。時間がかかりすぎたな・・・と心底思います。これから恋愛とか結婚とか考えてると,なんか果てしない感じがします。40で子供ができたとしたら,子供が20の時僕は60になるので・・・。2人目とか考えるとぞっとします。そもそも,現段階ではできるかわかりませんが。

 そう思うと,この6年間に払った犠牲というのはものすごく大きいような気がしてきました。おそらく,恋愛をしようという気が起らなかったのも,それだけ余裕がなかったということなんだと思います。そこまで余裕がないことにも気づいていませんでした。僕は基本的に,鈍感なので。

 今回得られる博士号は,そんな大切な6年間を費やして得た学位です。これを,絶対に無駄にはしたくないという思いがますます強まっています。

 

環境的要素は重要

 僕の研究内容については,まだここで明らかにするということは控えておこうと思いますが,簡単に言うと環境教育に及ぼす影響ついて,既往研究の成果から環境的要素と人為的要素の2つが考えられました。そこから,環境的要素と人為的要素の両方の側面から分析したというのが僕の博士論文研究です。

 研究の中で,僕は環境的要素というのは人々の意識にはおそらく及ばないレベルだと思うのですが,まぎれもなく影響しており,実際には環境の設定というのはものすごく重要なんですよ。もちろん,人為的要素も重要なのですが。

 そういう観点から,自分が身を置く環境もとても重要なんだと思うようになりました。今までは理想を追いかけていました。でも,そんな超人的なことを凡人である僕ができるわけがありません。

 僕は今後,研究をメインで生きていきたいと思っています。だからこそ,研究ができる環境というのは選びたいと思っています。

 少なくとも,僕は小学校教員をしながら研究をするなどということは理想論に過ぎないと思っています。したがって,これらを両立させる気は今後ありません。研究の方に舵を切っていこうと思っています。挑戦になりますが,少なくとも現状の延長は後悔するであろうということが確実に見えている以上,後悔することがわかっている選択肢を取る気はありません。

 

励まされた

 けど,

「それは,それだけ打ち込んできたということじゃないか」

と言われたときは,すごく救われる思いでした。

 僕がこんなに博士号を取得するために苦労する道を選んできたのには,未来の目標があったからです。決してなんとなくではやってないし,なんとなくでやっていけるほど博士課程の世界は甘くないです。

 自分がやってきた小学校教員と博士後期課程の学生という身分は,おそらく普通はやりきれる両立ではありません。それをやりきったんだということは自信を持っていいんだと思うし,自信を持っていいんだと自分に言い聞かせたいです。

 

博士はスマートではないと思う

 博士はスマートな生き方ではないと思います。

 少なくとも,現状の日本では博士号を取得しても所得の高い職に就けるとは限りません。研究職に就業できるとも限りません。非常に非効率な選択肢です。

 そんな中,博士課程に進学して,取得できるかわからない博士号を取りに行くという選択をとる以上,スマートな人間ではありません。

 それでもやってきたのは目標としたいことがあるから。それ以上の何でもありません。ある人の言葉を借りるならば,僕の行くところに道なんかは,おそらくないんだと思う。けど,道がないからといって止まっていたら,進めないです。

 きっと世の中の博士たちはそんな思いでいるんだと思います。

 

流されない

 僕は頑固だと思うのです。人の話を聞いてないというか(耳に入ってないという意味ではなく,飲み込んでいないという意味で)。見た目は柔らかそうだと思いますが,考えていることの固さはすごいものだと自分で思います。けど,人の意見に流されやすいという相矛盾した性質も持ち合わせています。その違いは,自分の意見として確固たるものを持っているかどうかです。

 おそらく周りからは「そんないばらの道,歩かない方がいい」と言われることでしょう。けど,その道が本当に茨かどうかはわからない。確かに茨かもしれない。けど,そこに躊躇していたら僕のしたいことはいつまでもできないまま終わってしまいます。だから,流されたくないと思っています。

 

新たなバランスを作る

 これからしばらくの僕は,間違いなく岐路に立っていると思うのです。一つの節目が終わり,次の道をどうしようかと考える段階に来ています。それは,犠牲を払う代わりに大きなものを得たこの6年間を過ごした,社会人学生としての「バランス」を崩すタイミングが来たことを意味しています。

 新たなバランスを作るということは,何かを捨てないといけないということです。

 しばらくの間は考えることくらいしかできませんが,しっかり考え,道を作っていきたいと思います。

オンライン化の功罪ータイミングが良かったー博士論文とコロナ

 今年度の特徴といえば,オンライン化したことですよね。コロナの影響で,多くの大学はオンライン授業化しました。うちの大学は,様子をみながら,途中から対面での授業も再開するようになったようですが。

 世間ではコロナのマイナス影響を大きく受けていると思います。しかし僕の場合はかなりプラスに働きました。

 

 僕はかなり遠方に住んでいるので,大学まで片道4時間かかります。往復すると8時間です。本来は,博士論文に着手する2020年度前期は往復8時間かけて何回も大学に通う予定でした。

 しかしコロナが流行し,オンラインによるやりとりが一般化しました。オンラインによるやりとりの進展はかなり急速だったような印象があります。

 オンライン化したことによって本来往復8時間かかるはずだった移動時間が完全に0になったことはとても大きかったです。

 学会発表もそうでした。本来であれば,移動に時間を費やすのと,学会の日は発表以外は何もできなくなるのですが,オンラインだったおかげで時間が確保できました。移動時間がまるまるコストだということを実感した年でした。

 書類提出もそうです。本来ならば,事務局に直接出向く必要があったのですが,コロナの影響で自粛していたので,オンラインでのやりとりで済みました。こんなこと,少なくとも前年の2019年では考えられませんでした。

 発表会本番と予備審査会の時は大学でしたが,それ以外は基本的にオンラインだったので,時間の短縮になりました。膨大な時間を必要としていた僕にとって,救い以外の何物でもなかったです。

 

 それが仕事にもやや良い働きをしていて,本来は1日抜けないと厳しかったところが半日で済むなど良い効果もありました。併せて,移動に伴う体力の消耗もなかったので,体力的にもよかったかなと思っています。

 

 今年は職場の方もわりと抜けやすい状態にできたので,いろんなタイミングがそろったのが今年だったような気がしています。

 

 デメリットは特に感じませんでした。

 ゼミも解析段階とかだとデータのやりとりとか議論に少し支障があったのかもしれませんが,博士論文にまとめるというような展開だったので,オンラインでも困ることはありませんでした。

 

 ただ研究室の後輩からしてみると,卒論が一人作業になって,意見の交流も何もできなかったと話していました。だから,この状況がだれにとってもよいというわけではないことも分かっています。少なくとも,僕の進捗状況と2020年のタイミングが良かったというだけです。

 

 そう思うと,学位を取得する年が2020年になったということ自体は偶然なのですが,いろいろなタイミングを見るとただの偶然にも思えず,必然なような感じがしました。

 

 ただ,せっかくのオンライン化の流れを殺すわけにもいかないと思います。オンラインのメリットは積極的に生かしたらいいと思います。少なくとも,僕のような遠方の人間とつながるという意味ではとてもいいと思います。

次に向けた動きを始めています

 博士論文のことが終わってから2週間が経過しました。

 途端にすることがなくなった感じです。

 この2週間はスマホゲームやゲーム動画に明け暮れてしまいました。時間を忘れてしまうほどやってしまうので,反省しています。

 ただ,毎日何かをする習慣がせっかくついたので,その習慣を無駄にしたくないという思いもあって,勉強も始めました。

 この3つです。

 博士論文をしていたのと同じくらいの時間を費やすとしんどくなるので(慣れてしまったので,しんどくないかもしれないが),時間は減らしつつも,毎日やるという習慣そのものは消さないでおこうと思います。

 

 質的研究を勉強しているのは,次の研究のためです。

 今年度後期は大学の在学はなく(修了するため),職場の肩書だけが残る状態です。したがって,調査などはできません。しかし,振り返れば博士論文研究の際も下調べがあまくて,研究計画にかなり苦労しましたし,その甘さが結果にも影響してしまったと思っています。その反省を踏まえ,この半年は下調べと研究計画にしっかり費やすつもりです。

 今後の研究は,基本的に博士論文研究の流れで,そこから見えてきたこの先の研究について追及していくつもりでいます。僕の研究している分野は超マイナー分野なので,研究ポスト確保のためにメジャーな分野に合わせた方がいいかなと思ってみたんですが,それよりも純粋に自分が追求したい分野を追求することにしました。

 博士論文研究としては量的研究をしたので,その次は質的研究をしたいと思っています。そうなるとヒアリングなどが主体となるので,今の職業では難しいと思っています。だからこそ,その下準備をしようと思っています。

 

 英語と統計学については,そのままです。英語は,海外の文献を読みづらいというか,文法的には問題ないのですが,語彙力のなさが致命的のように思えましたし,英語で発表されると聞き取れないので,英語力をつける必要性を感じました。

 統計学については,博士課程在学中(という今も在学中ですが)には必要なことのみをしたので,残りの必要な学習をします。

 

 論文検索もした方がいいと思うのですが,とりあえず質的研究の勉強をしてからです。

博士課程に行くために 何よりも目標が大事(社会人学生経験談)

社会人学生として過ごす日々も,あと少しになります。

僕の経験談として,社会人学生として博士課程へ進学しようとする際に必要となることを整理します。

結論から言うと,何よりも目標が大切だと思います。

 不安が大きい

 博士課程(博士後期課程)に進学することへの不安は,概ね下記の通りでした。

  • 経済的不安
  • 修了の可否と,その後への不安
  • 精神的な負担

 これらの問題への克服が必要です。

経済的不安

 僕の場合,学部生時代と修士課程生時代に奨学金を借りていました。

 奨学金という名の借金です。

 学部生時代は第2種(利子付き),修士課程生時代は第1種(利子なし)の奨学金を,それぞれ400万円借りていました。返済額が800万円の予定でした。そこで博士後期課程でまた奨学金を借りると,1000万円を超えるだろうという予想が立ちました。まず額が大きいので,これだけで不安になります。

 加えて,博士後期課程を最短で修了しても27歳になります。その時点から普通の新卒としての就業は難しいと思いました。そもそも就業できるのだろうか,という不安もありました。雇用情勢がどう変化するかは予想がつきません。本当に27歳で修了できるとも限らない状況で,1000万円以上もの奨学金を返済できるだろうか。不安しかありませんでした。

 そういう経緯で,僕は社会人学生として,自分でお金を稼ぎ,学費も自分ですべて賄える状態になってから進学しようという決意をしました。

 

修了できないかもしれない

 博士後期課程はそもそも修了できないかもしれません。

 研究室訪問に行った際に,修了できずに終わる人がいるという話や,博士論文の審査を受けるための論文をそろえられるかどうかといったことに対する不安もありました。そして僕自身,修了できずに終わる人を見てきました。

 就職して間もないころ,電車に乗っているとき,偶然にも学部生時代の同級生で博士課程に進学した人とばったり遭遇しました。彼女曰く,

「研究者を目指してがんばってきたけど,自分は出来が悪いから,あかんかった。」

ということで,博士課程をあきらめ,退学するつもりだという話をしました。大学に入学した時点で研究者を目指している人でしたが,そんな人でもあきらめるほど厳しかったんだなと思いました。

 入学後も,入学が同じ年度(前期入学)の学生も博士論文審査を経ることなく,退学しました。いわゆる,単位取得満期退学というやつです。その方は退学後,就業したのですが,うちの大学では退学後1年以内でないと,課程博士としての審査を受けることができません。1年以上経過した現在でも審査を受けていないので,もう彼女が課程博士として博士号を取得することは,ありません。

 同じタイミングに入学した方(後期入学)も,今現在,博士論文の審査を受けていません。在学はしているので,おそらく休学しているのでしょう。僕自身はその方と入試の時にしかお会いしていませんが,僕でもまる6年かかっているので,今現在取得していないということは,厳しいかもしれない,とも思います。

 博士後期課程は,入学したら必ず修了できるとは限りません。本人が努力していても,上記の事例のようにかなわないことがあります。自分も修了できるとは限らないのです。

 加えて,その後も不安でした。修了できるかどうかそもそもわからないし,学位を取得したとしても研究職に就くことが難しいかもしれないのです。

 

それでも,目標があったから

 これだけ負の要素があるにもかかわらず,なぜ入学したのだろうかと思うと,明確な目標があったからです。

 卒論をきっかけとして,僕は情報を発信できる立場の人間になりたいと思うようになりました。むろん,それはyoutuberのような発信者ではなく,メディアでもありません。だれもが覆すことができない客観的な情報をもとに,提案ができる人材になりたいと思っていました。

 それには客観性を自分自身が身に着けることが必要です。聞いてもらえるだけの立場も必要です。それらは,修士課程を修了した時点の自分ではとてもできないことだと思いました。博士号を取得できるほどの能力が必要だと思ったし,少なくともそういった情報を話す立場になるためには研究をする必要があり,そのためには博士号を取得する必要があると思ったのです。

 諦めたら,そこで終わりです。

 諦めて後悔するよりも,チャレンジしようと思いました。だから,飛び込むことにしたのです。できるかどうかわかりませんでしたが,限界までチャレンジしようと思ったのです。

 

仲間の存在が大きかったのかもしれない

 社会人学生なので頻繁に大学に行くことができるわけではなく,研究室では僕一人ということが多かったです。研究そのものは一人作業でしたが,同級生に博士課程へ進学していた人が多かったので,あの人もがんばっている,だから自分も頑張らないと,という思いを持っていました。

 なかなか研究が進まないこともあったし,滞ったこともありました。それでもやってこれたのは,過去の仲間の存在がどこか心の中にあったからだと思いました。

 

研究室と先生

 僕は修士課程と博士課程では違う大学に進学しています。

 博士号を取得したいなら,あまりこういうことはしない方がいいと思います。博士で研究室を変える,特に僕のように分野が変わると大変です。修士のころから博士号を狙って動いていくのがベストだと思います。

 ただ,僕の場合,現在の研究室の先生は,修士課程の学生だったころ,とある研究会に出向いたときに知り合った先生だったので,知っている人でした。それが安心でした。全く知らない先生のところだったら,ここまでできていないと思いました。

 

結論

 これは博士課程に限りませんが,結局は何を目標にして博士課程に行くかです。

 単に,学位をとって箔をつけたい,というようなレベルの目標ではだめだと思います。進学することに明確な目標があるのなら,その目標に向かって突き進めば,たとえどんな形であっても,進学したことは無駄にならないし,そもそも無駄にすることはないと思います。誰もが過去のことを大切にしながら生きていきます。修了してから,きっと学生としてやってきたことは常に大切にしながら生きていくはずです。人間は,そういうものだと思います。

 だから,明確な目標があれば,それだけでいいと思いました。

 

 経済的な事情はどうにもしがたいです。だからこそ僕は社会人学生になりました。仕事との両立は難しいし,僕の場合,博士号取得者はまずいない職場でしたし,研究系の職業でもないので,理解もされませんでした。無駄な努力をしている残念な人くらいに思っていた人もひょっとするといたのかもしれません。

 前の前の上司にはこういわれました。

「それだけやる能力があるのなら,その能力を仕事にも生かしてほしい。」

 タイミングもあります。何か正体のわからない,見えざる力が働いているような感覚になるようなときもありました。いつでもできるというものでもありません。

 それでもくじけずにやってこれたのは,やはり目標があったからだと思います。

 

 もし,このブログを見ている方で進学を迷っている方がおられたら。僕からいえることは,明確な目標があるのなら,チャレンジした方がいいということです。進学したいという思いが芽生える時点で,進学する資格はあると思います。

 博士をめぐる状況はかなり良くありません。それは明確な事実だと思います。しかし,未来の自分が,取得するであろう学位,あるいはその過程における経験を無駄にすることは,きっとありません。挑戦したものにのみ,チャンスが与えられます。

学位と博士号について【大学院博士課程(博士後期課程)】

 自分自身が指導を受けながら,博士の学位の重さをすごく感じるようになりました。

 今回は,僕が感じた博士号の重さについて述べたいと思います。

 

 法的根拠

 学位については,文部科学省の省令である学位規則で定められています。

https://elaws.e-gov.go.jp/search/elawsSearch/elaws_search/lsg0500/detail?lawId=328M50000080009

 学位規則によると,学位は次の5種類があります。

 専門職学位については,さらに細かい区分として修士(専門職),法務博士(専門職),教職修士(専門職)が設けられています。

 ちなみに以前は「短期大学士」という学位はなく「準学士」という称号を用いていました。準学士の称号は短期大学と高等専門学校を卒業した時に与えられるものでしたが,このうち短期大学は短期大学士という学位として定められました。高等専門学校準学士のままです。 

 このうち博士については,細かい定めがあります。

https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo4/004/gijiroku/attach/1327208.htm

  • 大学は,博士の学位を与えた場合,学位を授与した日から3月以内に,授与した学位ごとに審査の結果と博士論文の要旨を公表すること。
  • 博士の学位を授与された者は,学位を授与された日から1年以内に博士論文を印刷公表すること。
  • 大学は,博士の学位を授与した時は,博士の学位授与報告書を文部科学大臣に提出すること。

 法規上でも,博士号だけ扱いが異なることがわかります。

 

 僕は上記の学位規則を見るまで知らなかったんですが,博士号については誰に博士号を授与したのかについて,文部科学大臣へ報告する義務が大学に課せられているようです。

 

余談

 いわゆる論文博士についての規定が存在します。

 修士や学士についてはそのような規定は存在しません。

 したがって,「論文修士」や「論文学士」という制度は法規上,存在しません。これらの課程を卒業・修了しないともらえない学位だということです(細かいことを言うと,学位を授与する団体がある・・・短大の専攻科を修了した人が学士号を得る際など)。

 

実際の扱いが違う

 大学の中でも学位の扱いが違います。

 まず博士の学位の場合は,提出書類がとても多いです。

 次に,審査における扱いが異なります。卒論や修論の場合は,いっきに発表をやってしまって,そのあとに全員分を一気にまとめて審査するという感じだと思います。いちいち,一人ひとりについて説明するということもありません。

 博論(D論ともいう)の場合は,一人ひとり個別に審査されます。発表会の際にも,資格の確認(大学の学位規則の何条の要件を満たしている,とか,どの学会誌に査読論文を出したか,とか),学位規定の話とかを,丁寧に紹介されます。

 さらに,発表会が終わって,そこでOKをもらってもまだ正式決定ではなく,教授会にかけられます。そこで最終判定が下り,学位を授与されることが正式に決定します。これをもって,博士課程を修了することが正式に決定します。

 これについては,上記の学位規則の規定により,大学が代表として文部科学大臣へ〇〇氏に博士(〇〇学)の学位を授与したという報告をする関係で,大学の意思として学位を出す必要があるため,このような厳重な対応をしているのだと思います。

 

指導も違う

 先生から指導を受けるわけですが,博士論文にどれだけの労力がかかっているのだろうか・・・と思うほどものすごい時間を費やしていただいたと思います。副査の先生も含めると,僕の博士論文にかけられた時間はものすごい膨大な時間です。

 これを博士一人ひとりにしているのですから,一人博士を出すのにどれだけの労力がかけられるのかが,よくわかりました。博士号を出すということは,とてつもないことです。

 

だからこそ,活用しないと

 自分自身も当然努力はするのですが,ここまでいろんな人の労力をかけて取得する学位だからこそ,博士号をただのお飾りにするなんていうことは許されないなと思いました。

 もともと,博士号を取得できた暁には学位を生かしたことをしたいと思っていましたが,余計に博士号を生かさないと,社会に対して還元しないと,と思うようになりました。

 

博士はなんでもできる人,か?

 博士の学位は世間の1%程度の人しか持っていません。

 そんな学位なので,博士のことがよくわからないという方は多いと思います。

 僕も,こないだこんなことを言われました。

 「博士号がとれるってことは,どんな仕事でも,専門じゃないことでも,なんでもできるってことだよね。」

 んー(笑)

 日本の博士号は,英語ではPh.Dという表記がされますが,これが哲学の博士という意味なのだそうです。ある課題に対して論理的かつ科学的に解決し,誰もが知りえていなかった知見を見出すことができる人物,ということは言えると思います。

 ただしそれは特定の分野の中で行われるものです。

 例えば,工学の博士をつかまえて,

 「あなた,工学の博士なんでってね。だったら,明日から国語よろしく」

 なんていうことにはなりません。

 おそらく,その方が「なんでもできる」といったのは,俗にいう「なんとか博士」のことだと思います。博識だという意味です。物知りな子供に「漢字博士」「昆虫博士」とか言いますよね。ああいう雰囲気です。

 博士号の博士とは博識ということではなく,特定の学問分野について誰もが知りえていなかった知見を見出した人物という意味です。

 ただそれを全員が知っている前提にするのもおかしいなと思いました。博士自体がマイナーな存在ですから。世間の人に知ってもらうには,博士の方が自分から積極的に話していかないといけないんだろうなと思いました。

今考えている,今後のこと(博士号を取得するにあたって)

 博士課程を終得ようとしている今,純粋に考えていることを書き留めておこうと思います。

 

自分が特殊に見える理由

 僕が不思議なことをしている人というような感じに見られる理由が,修士課程のころの同級生と比べることで,わかったような気がしています。

 修士課程の同期で博士号を取得している人は3人います。そのうち2人はもとから学者になることを目指していて学者になった人です。もう一人は,社会人学生をして博士号を取得した人です。その人はもう大学の教員になっていますが,もともと,専門性の高い職業についていました。博士課程で彼がしていた研究も,その関係の内容についてでした。職業と研究が合致しているので,不思議な感じはなかったと思います。色で例えるなら,職業が青色で,研究は藍色。結局,青系統。だから,わかりやすいのです。

 僕の場合は,職業が黄色だとしたら,研究は緑色。全く外れたことをしているわけではないんですが,本筋とも言えないのです。ましてやマイナー分野。結果,中間の黄緑色,といった雰囲気になりました。黄緑色をした人材が黄色の人材の中に飛びこめば不思議な感じがすると思います。

 間を取ったようなことをしている以上,分野としてはマイナー分野です。だからこそ,ポストを見つけようと思っても,黄緑色のポストというのは少ないので,緑に合わせるのか黄色に合わせるのかという選び方になりがちで,分野のわかりにくさがポストの確保のしにくさにもつながるのだなということを感じました。

 

今後のこと

 博士課程に進学したのは,研究はしたいけど修士の段階では難しかったからです。だからこそ,博士号を取得して博士課程を終えるとはいえ,研究はもうしません,なんていうことになると前の状態に戻るだけなのです。

 これだけの労力をかけて取得する博士号ですから,それをどう生かそうかという考えになるのは自然なことだと思います。ただ,現職のままでは研究をするという行為自体にブレーキがかかるということも事実です。学位を取るのだから研究をするという行為そのものは堂々とやればいいと思いますが,今までも在学に関して言われてきているのも事実です。現職にいとどまるという選択肢は,研究をしないということとイコールだなと思っています。

 かといって上記のような理由で自分に合致した分野というのが選びづらい状況ですし,何よりも実績が足りていません。実績を積むことも必要だと思っています。

 だからこそ,実績を積むためにどうするか。今後の生き方につながる壮大な話ですが,明らかにしていかなければなりません。

 

短期的には

 ともかく現職にピリオドを打つにしても年度区切りでしか動けませんので,終了してからの半年間は,研究職探しをしつつ次のテーマ設定に向けての動きをしておくことはできるかなと思いました。

 

中・長期的には

 ひとまず実績を積まないといけませんので非常勤講師などの不安定な身分である時期を経る必要はあるのかなと思っています。ただ,その後確実に何らかの研究職に就く覚悟でないといけないと思っていますし,収入がガタ落ちするので生活に困るかもしれないレベルです。そんななかで研究に必要な時間も確保しなければなりません。簡単な話ではありません。

 自分のしたいことを取るとお金には困るといったことですね。両方取りをすることができればいいですが,そう簡単にもいきません。

 

支えがあったからできた

 僕がここまでやってこれたのも,いろんなところで支えがあったからです。

 それだけ支えられ,労力もあっけてようやく取得できる博士号なのですから,やはりそれを生かす道を歩みたいなと思います。ただ,それによってさらなる負担をまわりにかけるというこはしたくないです。

周囲や上司の理解と自分の覚悟ー社会人学生生活のコツー

 僕が社会人学生でいる期間は今月を含めてもあと2か月になりました。

 今までの社会人学生生活を振り返りながら,社会人学生としての生活を送る上でのコツを書き記していければと思っています。

 

入学に際し必要なこと

 入学に際して必要なことは,以下の通りです。

  1. お金
  2. 自分の覚悟
  3. 上司の理解
  4. 周囲の理解

お金

 学費は当然のことですが,例えば進学の際に休職をするなどしたら,収入がなくなる分に加えて生活費が必要になります。そうすると,必要となるお金はものすごい額になります。

 僕の場合,働きながら通う前提でしたので,学費の心配はしていませんでした。ただスケジュール的に最後の年は休職しないと厳しいかなと思っていたのですが,必要なお金は計算していませんでした。

 給料がなくなり,学費は払い,生活費もねん出するとなると相当高額になり,休職をするという選択岐がいかに非現実的なものかがわかりました。

 

自分の覚悟

 自分の覚悟も必要です。

 博士後期課程(単に博士課程とも言います)は何年かかるかわかりません。研究を進めないと前には進めませんが,研究を進めるにはそれなりの展望と時間が必要です。

 研究がしたくて進学するのなら大丈夫です。博士号が絶対に必要だと思うなら,やりきれます。

 しかし,博士号が必ずとれるとは限りません。博士課程は,雲をつかむような感じです。そこもある程度の覚悟が必要です。

 

上司の理解

 社会人が進学するに際しては,所属長の了承が得られている必要があります。職場によっては「博士号は大切。うんと取ってこい」とすごく前向きな感じで博士課程に送り出してくれるところもあるようです。そういうところは,職場そのものが研究に関わっているといったことがあるようです。しかし,そういうところだけではありません。僕の場合は,理解を得るのにすごく苦労しました。最初の年は「だめだ」と言われたので,進学のしようがありませんでした。次の年は「いいよ」と言われたので,その時点でできるだけ早い進学として,後期入学をしたのです。

 資格という形で反映されるわけではないので,転職のための進学というように考えられる場合があるように思います。それと,博士課程という存在は世間離れしている(一般的ではない)ので,理解されないのも無理はないです。

 また,僕は上司が変わるたびに説明を必要とされました。一から説明をする必要性が出てくるのですが,話して通じるものではありません。卒論みたいな感覚でとらえられることがあり,容易なものだとばかりに話してくる場合もあります。それでも,僕は目標があったので,くじけることはありませんでした。

 

結局は,自分の覚悟

 結局のところ,博士課程に自分が何を求めているかだと思います。

 目標が明確であれば,そこに向かう努力を怠ることはおそらくないと思います。僕も6年かかっていますので,もう少しはやく取得できていればと思うことはあります。社会人学生でも4年とかで取れている人もいます。最近,そういう人と比べることがあるのですが,そうはいっても仕方がありません。

 タイミングも大事なので,もし大学院に進学したいという思いがあるのであれば,タイミングを逃さないことも大切だと思います。

社会人学生でない生活に慣れる必要性

 博士論文発表会(公聴会)を終えて3日が過ぎました。一転して平和な日々を送っています。お出かけができないのが心残りです。

 次第に、社会人学生として過ごす期間も、あと少しなんだなぁ、と感じるようになりました。

 

 これまではスライドに本文に要旨に原稿に、することが山ほどある生活を迎えていました。3月から、ずっとでした。

 まだ本文の修正がすこし残っていますが、なんかやることを探している自分がいることに気がつきました。

 思ってみれば博士後期課程に入学したのが2014年の9月。6年もの間、社会人学生をしてきましたが、社会人学生としての生活にピリオドを打つんです。修了する前までに、次第に社会人学生としての生活から離れないといけないなと思いました。

  今年度中は社会的立場に変化はないので、今年度末までに今後の自分の方向性と自分の身のふりを決めることが必要です。

 

 研究についてはやめるつもりは全くありません。元々、研究できない生活がもどかしくて入学した大学です。長期的に研究を続けられる方法を考えたいと思っています。

 

 加えて、私生活面です。何もしてないと落ち着かない所があるので、自分が思ういい私生活を過ごしていくようにしたいです。

 在学時にできなかった統計学や英語の勉強はこつこつ続けたいし、次の研究に向けたテーマ設定や課題見つけ、文献のレビューなどはできるので、次の研究に向けた動きもしていきたいです。

 

 博士号が見えてくると、研究から自分を離したくないという自分の思いが見えてきました。

 博士課程を修了したら、次のステップに入ります。次のステップにスムーズに入れるように準備が必要ですね。

博士論文発表会(公聴会)が終わりました

 表題の通りですが,博士論文発表会(公聴会)が終わりました。

 無事に,審査でOKをいただくことができました。

 ひとまず,ほっとしています。

 

予備審査会から公聴会までの経過

 予備審査会での評価はボロボロでした。本当にどうなることかと思いました。

 予備審査会では酷評というに等しいような感じでした。質疑応答でもしどろもどろになってしまいました。とりあえず公聴会に進んでいいけど・・という感じでした。だからこそ,公聴会を迎えることがとても不安でした。

 だからこそ,ひたすら良くするしかなかったので,スライド,本文,要旨,原稿とすべてを何度もチェックし,指導をうけながら,少しずつ改善していきました。

 振り返ってみると,当初はこんなにやることがたくさんあって,7月やり切れるのかなと不安に思っていました。しかし2020年は僕の中で計画性がかなりついてきたので,やることの量が多くても,時間の制約と成果をある程度コントロールすることができるようになっていました。無論,先生のご指導はとても絶大でした。

 

公聴会本番

 意外と,普通の学生も見に来られていました。修士論文の発表が先にあったので,そっちの研究室の方かなと思ったのですが,博士論文発表会に切り替わってもまだおられました。

 今回は質疑応答も落ち着いて対応できました。今日参加された方からも「今日の発表は良かった」と言っていただけました。おそらくですが,スライドの構成が良くなったことがきっかけで内容の議論ができたのと,この間に,自分の中でのあいまいだった部分の論展開がはっきりしたのだと思います。

 

助けがあってこその博士号

 副査の先生のうちのお一人もそうなのですが,うちの研究室出の先輩も来られていて,なんと投稿した学会の編集委員をされていたらしく,僕の論文が通ったときはうれしかったという話までしていただけました。

 見えないところにも応援してくださっていた方がいたのだな…と思いました。

 振り返ってみたら,いろんな人の助けがありました。

 もちろん,自分としても努力してきました。けれど,それだけでは無理だったと思います。博士課程は学位審査までたどり着かずに退学する方も普通にいます。そんな中で,社会人学生の僕が最後までこれたのは,いろんな人の助けや支えがあってこそです。博士を一人出すということが,これまでにも大変なことなのだと,ものすごく実感しました。

 

時間の制約と成果のコントロールー最大のパフォーマンスー

 自分の成果と時間の制約のコントロールができるようになったこともとても大きいです。

 3月から博士論文のことに取り掛かり始めましたが,この5か月間,僕は常にその時その時に出せる最大のパフォーマンスをしてきました。睡眠時間を削らず,余暇時間だけを使って,効率化のための方法も考えて。フルパワーをここまで持続して出せるとは思ってもいませんでした。2018年には過労を起こしていたので,その時のことを思うとものすごいことです。

 

今年でないとできなかったと思う

 僕は,この2020年という年でないとここまでこれなかったのではないかと最近思うようになりました。職場の方の体制が整ったり,コロナの一件があって,オンラインでのやり取りが普通になってきたのと学位論文に取り掛かり始めたタイミングが一緒だったこと,それに伴い事務手続き等もかなり簡略化できたこと。すべてが好条件としてそろっていました。

 修了式が挙行されるかは怪しいですが,2020年というタイミングは必然だったような気がすごくします。

 

今後は?

 今後はどうするの?と今日も聞かれましたが,今の職業のままでは少なくとも博士号という宝を持ち腐れると思っています。当然ながら僕は研究をこれでやめる気はなく,むしろ博士号を取得してからがスタートだと思っているので,研究が今後もずっとできる道を模索していきたいと思っています。それが現職にはないことも心の中では決めていますが,具体的な動きとしてどうするかは今後考えないといけません。

 

 ひとまず,無事に終わってよかったです。本当に。

公聴会前日

 公聴会(博士論文発表会)前日になりました。

 すごく緊張しています。

 

過去の学位論文審査の時は?

 卒論修論の頃はどうだったかなと振り返ってみました。両方とも特段の記録を残していないので、それほどのことではなかったのだと思います。笑 卒論の時は、事後、解放された!というような記録のみで、修論のときは先に本文の審査があって、先生たちの反応が良かったということを事前に聞いていたので、あまり緊張感のある発表会ではなかったようなことを過去の自分が記録に残していました。

 本日記のような事前の記録をつけるのは初めてです。

 

学位論文審査の特徴

 学位論文審査は審査なので、学会発表のような自分の内容に関心を持った方が聞きに来るという感じではなく、ツッコミに来られるという感じです。そこも緊張する要因のうちの一つです。

 なので、おそらく隙を突かれます。だからこそ、自分で隙だと思うことを見つけて、そこを補強するようなことをしておかなければなりません。

 と言いつつ、スライドの準備にすごく時間がかかったので質疑応答対策もほとんどできていないような状態です。そこが不安です。

 6月下旬にあった予備審査会ではボロボロでした。ものすごくズタズタにされた感じで、評価もボロボロでした。とりあえず公聴会には進んでいい、というような感じで今日に至ります。

 

厳しかった予備審査会

 予備審査会は2つ先の先輩のを見たことがありますが、公聴会は見たことがありません。ただ、とんでくる質問のレベルがやはりすごかったです。その先輩は僕のようなそもそもプレゼンがわからないというような感じではなく内容の問題を指摘されていて、これをこうしなかったのはどうしてか?というような感じでした。

 僕のスライドの場合は内容がそもそもわからないという雰囲気でした。僕のスライドがよほどダメだったのかなと思います。質問されたとしても、しどろもどろになってうまく対応できないので、答えをある程度用意しないといけないなと思っています。どんな質問が来るか分からないので。

 

 

やるしかない

 ともかく、やるしかないので頑張ってきます。

 合否判定が下りますが、落とされるということがあるのかどうかわかりません。落とされないようにしたい・・・と考えるよりも本当はスムーズな答えをしたいというようなプラスな考えを持った方がいいのでしょうね。

 うまく行けば、明日の公聴会が、学生として最後の発表会になります。

 うまくいかなければ、大変です。